森省二 著「正常と異常のはざま」の中で「十七歳の遺書」について述べた部分

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以下引用。173ページ から 176ページ
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4-境界線上の生と死


「クライ・フォー・ヘルプ!」
 青春期は、すでに述べたように、自殺およびその類似行為が起こりやすい。それは、この時期がまさに、生命活動がもっともさかんであると同時に、突然、それが希薄となり、生と死の境界線上をさまよいやすいからである。先の【事例L】(境界例)でも、身も心も傾けて相手に突進していくかと思うと、とたんに絶望して、自殺を企てる。では、彼女は本当に死にたかったかというと、実は違う。自殺の心理は、いつの場合も、その背後に強い生への願望が発見できるのである。ここで、十七歳で自殺した少女の詩を紹介しよう。
彼女は、いままさに生と死のはざまにいる。誰も信じられない。愛がむなしいといいながらも、お母さん、お母さんと母親の愛を求める。死にたいといいながらも、負けたくないという。この両極に広がる矛盾した心理を、十七歳の彼女は統合することができずに、死の方向へと境界線を踏み越えてしまったのである。
 この詩から、少女が信じられる何かを、愛しうる何かを求めていたことがわかるだろう。自殺は「クライ・フォー・ヘルプ!(助けを求める叫び)」(カール・メニンガーの言葉)なのである。

生命活動の活発化と希薄化
 しかし、自我に目覚めはじめた若者たちは、その心の弱々しさを誰にも悟られたくないと思う。悟られることは自分の弱さを暴露することに他ならないからである。その上、ときには生と死の選択も自分に委ねられていると、考えることもある。次の少女の言葉が、そのことをよく物語っている。ちなみに、これは、前の詩を作った少女のクラスメートが、彼女の死をめぐってクラス討論したときの発言である。
 この討論において、自殺は悪いことではなく、むしろ人間の特権であると考える点に、若者たちの特徴がよく表われている。まさにこれが、青春期の自我意識であろう。同じ年齢でも詩の少女とは大違いである。「だから死ぬっていうわけじゃない……もっと複雑よ」といいうるクラスメートの心の健全さ、すなわち、人間のもっともベーシックな部分で<生(エラン・ビタール)>に根差して生きていることに注目しなければならないであろう。
 心病める若者たちに接するとき、しばしば私は、彼らに、なぜ生きなければならないのかと問いかけられる。しかし、その問いに答えることほどむずかしいことはない。これは哲学の永遠のテーマでもある。神の摂理を引き合いに生命の尊厳を説いても、おそらく彼らには陳腐な説教と映るに違いない。頭でっかちな若者の中には、「神さえ決して万能なわけではない……神は自ら欲しても、自殺することはできないのだから」というプリニウスの言葉を口にして、死を前に冷たくほほ笑む者もいるかもしれない。
 しかし、これだけはいえるだろう。「死を考えられるのは、生きているからである」と。いかなる条件下においても、生きているから死があるのであり、自殺は生きているという条件のもとに死に対面することである。そして、若者たちにおいては、その活発さとは裏腹に生命感情が希薄化しているという事実を忘れてはならない。彼らは生命活動の活発化と希薄化が紙一重で接する境界線上を、まさにさまよっているのである。
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引用終わり。
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